なぜ自分がこんな境遇に。
なんでこんなことをしなきゃいけないのか。
周りの人はいいよなあ。
そんなひがみの感情を抱いたり、周りを嫉妬してしまうことがあるかもしれない。
こんなことをしたい、こんなことを学んでみたいと思っていたのに、なんだこの環境は・・・と嫌気がさしてしまうことがあるのかもしれない。
でも、きっとそれは無意識的にでも自分が選んだ環境だと思う。
それに、そこから学んでいけることも沢山あると思う。
自分の目指す本流から意図せず外れてしまった状態にあったときに、辛さを感じてしまっても、これはもしかしたらチャンスなのかもしれないと思えるように生きてみようと思う。
本流は誰もが歩んでいく道のりである。特に望まなくとも歩めるような道のりであり、みんながそこに向かっていくようになる。
そんな状態から外れてしまったとき、本流を羨ましく思うのか、それとも本流から外れたからこそできることを考えたり、行動に移してみるのがいいのかもしれない。
誰しも、新しいことを学び始めるときに、自分にもまかせてほしい!やってみたい!という気持ちになるだろう。
でも、自分でこれをやりたいと張り切っていたのに、「みる」「みて学ぶ」ことに徹するような状況に置かれてしまったとき、ひたすらみることを受け入れてみる。
みるといっても、ただ眺める状態から、相手の中を透視するかのようにみる。観る。診る。視る。看る。そんな見方を徹底する時間なんて、本流にいたらもったいなくてできやしない。
でも、今は本流の外にいることに腰を据えて、本流外に徹してみる。
本流外が意外にも自分に合ったスタイルになるのかもしれない。
正解なんてない。
なのに、正解があるかのように選ばされ、正解を求めるようにせかされて生きていた。
こうしなさい。ああしなさい。これをやるのがいい。これが正しい。そっちじゃなくて、こっちにしなさい。そんなことしたらコスパが悪いでしょ?
それは安心感を生むが、創造性や楽しさは教えてくれなかった。
打ち捨てられたような環境にあっても、そこで出来ることは沢山ある。
人生の足踏み期間は、自分の背中のねじを巻く時間なんだと思う。
ねじ巻き人形がエネルギーをじっくり貯めているかのように、じりじりと巻き上げていく。
巻き切ったら、自然とそのエネルギーを向ける先が見つかってくる。
今はただただ、その置かれた環境で自分にできることを見つめてみることが大事なんだろうなと思う。
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